2017年06月24日

学びは義務ではなく権利である (池田賢市 教授)


今発行されている「暮らしの手帖 2017初夏号」に
不登校についての特集が載っていました。


うちのお子は学校へ行っていないので
不登校なのかと、氣をつかって話をしてくれる大人の方が(たまに)います。
(まわりにはもうあんまりいませんが)


学校という形にこだわっていませんが
彼女は常に家で自分なりの勉強をしています。
勉強方法はあたりまえですが、かなりオリジナルです。


.<br />ソラにとってピアノは<br />弾くものでもあるが<br />制作物を貼りまくる<br />コレクションボードでもあるわけだ。<br />.<br />日々増殖していくので<br />たまにマジマジ見るとびっくり。<br />子どもってほんとすごい。<br />,<br />#piano<br />#paperdoll






先日は「聖徳太子」(池田理代子)の漫画を
友だちから借りて来たので
一緒になって読ましてもらいました。

わたし、日本史の教科書くらいでしか
聖徳太子のことは知らなかったし
昔お札に描いてあった人、という認識くらいで
たいして興味もかったんですが
面白かったです。


わたしはこれで初めて
冠位十二階、十七条の憲法、遣隋使、大化の改新
といったことの流れがわかりました!
今さら!!


思ったのは
日本の教科書はなぜもっと漫画を利用しないんでしょう?
ということ。


氣楽に学ぶことを排除しているとしかおもえない
教科書のセンスのなさは
けっこう異常にみえます。



これだけ日本には漫画がたくさんあって
漫画家もたくさんいるんだから
もう、教科書も漫画でいいのでは??

現に、大人のわたしにも
勉強になるしね〜



文科省は「クールジャパン」を定着させたかったら
「円周率を3、にする」とか
そんなアホなことしていないで
教科書漫画にしたら、みんな楽々勉強できるのにね。


楽をしないで
努力しないといかん、
とおもっているふしがありますね。
日本の文科省は。




きっと、外国の人にもウケるし
すごく話題にもなるとおもうんですけどねー


わたしはお金(おさつ)も

手塚治虫の柄にして
火の鳥を描いたらいいとおもうし

赤塚不二夫にも登場してもらって
バカボン家族を描いたらいいとおもうし

水木しげるを載っけて
妖怪を描いてらいいとおもうんですよね。


福沢諭吉とか、なんであんな
海外で問題になりそうな人をわざわざ載せるんでしょうね。


わざとつっこみ待ってるとしかおもえない。






わたしは私立の大学、
証太は私立大学のあとべつの私立大学院へ行きました。

20代の前半の時代に
あれだけ自由で贅沢な時間をもらえたことは
ほんとうに親に超絶感謝なんですが

子どもたちにも 同じコースをたどってほしい、
とは特におもいません。

いろいろな人の
人生を帆走しながら垣間見ていて
感じるのは

人は皆

自分が
幸せになりたかったり

子どもが
幸せになってほしい

ただそれだけ
という人がほとんどだなーということ。



ここで問題なのは
幸せだー、というのを感じるセンサー
は、みなべつべつのしか付いて無いのです。



親がいくら幸せを感じることでも
子どもは一緒じゃないかもしれない。

子どもが幸せを感じることが
親には全くわからないかもしれない。


それは「個」として生まれて来たからには
どうしようもないことなのです。



親が押し付けてくる
「こうしたらこの子は幸せになるに違いない」
という氣持ちに

どれだけの子どもが
応えようとして、応えられず
「親を満足させられない自分」を

恥じたり、
不甲斐なく思ったり、
責めたり

したことだろうとおもう。






学校にしたって例外じゃなくて
小学校のころから
行くか行かないかを含めて
全てを子どもが決めていいんだとおもうのです。



子ども自身が決めれば、
もう、そこから子どもの人生が始まっています。
個人の経験の始まりです。



親が決めたことをやらせると
そこはまだ親の人生の中で
子どもが右往左往しているだけ。

自分の経験はまだ始まっていません。



子どもの選択を
応援するだけでいい。

その心は、けっこう親の氣持ちを軽くもできるんだけど。



わたしは、自分とは全然違う人生の経験を
生き始めた子どもを尊敬しています。


自分自身は、小学校も中学校も高校も
ほんとうは行きたくなかったけれど
親に氣を使って言えなかったなあ。




今から自分がしたいことや、したくないことを
大人に臆せずに言えるなんて
すごいなーとおもっています。







(ゆ)





モモが散歩から帰ってきたので、
今はここまで。











後日追記


「暮らしの手帖」2017年初夏号に掲載の文章
 もし子どもの「不登校」で悩んでいる人がいたら
 他にもいろいろ内容がありましたので
 本誌も読んでみたらいいとおもいます。



そもそも、学びは学校でなくてもいいのです。法律上でも同じです。




>>>引用
池田賢市(中央大学文学部 教育学教授)



  学生によくする質問なのですが、皆さん、「義務教育」って、どんなもので、なんのためにあると思いますか?ちょっと考えてみてください。

 「日本人が6歳から15歳までに受けねばならない教育」「社会にでて困らないように、最低限、必要な知識を学ぶこと」そのように考えた方は少なくないのではないでしょうか。

 「義務教育」とは、正しくは、子どもの学ぶ権利の保障を親に課し、その条件整備を行政に課すものです。そもそもは、子どもが親によって労働力として使われることのないように、子どもを保護する観点から生まれました。ここでたいせつなのは「義務教育」が学ぶ側の義務は学ぶ内容を指す言葉ではないということ。そして、学びは子どもの「
権利」であるということです。

 これを踏まえると、不登校がまるで「問題」のように扱われるのは、不思議なことと言わねばなりません。学ぶことは権利なのですから、その権利はいつどんなふうに行使してもいいのです。

 「体調がわるいので、しばらく休みます」とするのも自由だし、「そろそろ勉強したくなったので」あるいは「学びたいことが見つかったので」勉強を再開するのもいい。そもそも権利を行使する・しないに理由などいらないとも言えます。「学校」はそういった子どもの学びの権利を保障するひとつの場でしかありません。

 「問題」にされるべきなのは、子どもが学ぶ権利を行使できるように、そのための環境をしっかりと用意できているかどうか。決して、国や地方公共団体が用意した学校に、子どもが登校できているか否かではありません。

 日本の教育現場では、子どもを一律に勉強させ、一律に競わせます。それが当たり前のこととされています。とかく個性個性と言われる昨今の世の中で、学びのあり方においては、個性はなかなか認められません。これは残念なことです。












posted by terra at 18:05| 岡山 ☁| こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月07日

教育の無償化


今年の窯焚きの直前

ドイツから旅行に来た19歳の女の子、エマ。

✳︎<br />カウチサーファー<br />エマ フロムジャーマン<br />イン海の家、岩風呂。<br />✳︎<br />ヨーロッピアンの若者は<br />なぜこんなに物静かなのか。<br />✳︎<br />ドイツ人は<br />なぜ掃除や皿洗いが、やたら上手なのか。<br />✳︎<br />気がつけば<br />こちらがお世話になっている。<br />✳︎<br />次は四国に行きたいそうです。<br />✳︎<br />働きもので物静かな19才に<br />カウチを提供したいという方は<br />チャンスです。<br />✳︎<br />英語は母国語並み。<br />日本語は聞くのはだいたいわかるけど<br />喋るのがまだあんまり。<br />だから日本人と日本語で話したいみたい。


日本が好きな彼女は 大学の入学検定試験に合格した後

バックパッカーになってヒッチハイクと電車で旅しに来た。

日本人は「イエス」と「ノー」がはっきりしていないところが

おもしろくて好きなのだそうだ。





その時に聞いた話。


ドイツの大学はその試験に合格しさえすれば

全ての大学の講座を自由に受けられる。


今では、ドイツ国内だけではなくてオーストリアとか

他の国でも行けるところがある。


基本、受けたい授業をやっている先生がいるところへ行けばいいし

1年ごとに違う教授のところへ行ってもいいのだ。



ドイツの教育の基本というのは

「いつでも、誰でも、学びたいだけ」

という精神なのだ

大学の授業料も何ユーロって言っていたのか忘れたけれど

聞いたところ、すごく安かった。

アルバイトでもしたら自分で払えるような額。








おもうに、日本の今の大学っていうのは

他の日本の問題と同じく

商売になっているから、提供価格が高すぎる。



基本的に、医療と教育と福祉っていうのは

商売にしたらいかんことだとおもう。



そういうことに使うために

税金という徴収の仕方があるのだし。

それが整備されてこその国家だ。




日本はとにかく問題が山積み。

ひとつひとつ解きほぐして

ほんとうの国家にならないとね。




ドイツのような方式にしたら

受験戦争も終わる。


大学卒という資格は

基本的に皆同じ扱いになるのだから

「自分がなにを学びたいか」

だけが選択の基準になる。





消費税を項目ごとに違う掛け率にできるかできないかという話も

同じくなんだが

とにかく、外国で普通にできていることで

日本だけできないのは

いいわけや、しがらみ

経済的なたくらみ、がそこにあるだけで

国家っていうのを

もっとちゃんとするためには


とにかく 学費は無料か、格安で。

医療も、無料か、格安で。

福祉も、無料か、格安で。

やるしかない。





教育っていうのは国家の形を

つくるもの。




首相になる人が

とにかく頭が悪そうなのが

昨今の日本。



政治家になる人が

頭が悪そうだったのが

昨今の日本。


それはなにかというと

政治もほかの問題と同じく

商売になってしまっているからなのだ。





すぐ、財源がどこにあるのかとか言う人は

家庭で当てはめてみたらいいけれど


教育、医療、福祉、は家庭の中からの持ち出しが

すごく多い項目ではないだろうか。


国家というのは家庭の拡大版なのだから

やはり相似形に、それらの項目が多くないとおかしい。


戦争をするつもりのない軍事費は

いわば、お父さんが勝てるあてのないパチンコに使うようなもの。

息子が使う予定のないプラモデルを山ほど買うようなものである。




実際にちゃんと使えば使うほど

20年たっても

役にたつ、結果がでる、国民の幸せ度数があがる、ことに

たくさんの予算をさくべきだ。



ドイツにはできるのに

日本にできないわけはない。



視察って言って、政治家は

なにを見てきているのだろうか。


日本は情報的に鎖国しているわけじゃないのだから

ほかの国にできている

より素敵なことは

ぜんぶ素直に真似していけば、それでいい。




それから、真似されるような国になっていったらいいんじゃないか。


▶︎学費がはらえなければ脱ぐしかないのか

扇情的な題名がつけられてるけど、まじめな記事です。


少し引用させていただきますので

前後はこのサイトへ行って全部を読んでください。

教育を無償化、いろいろな国でできるんですから

日本でできないわけがないのです。

そうしたければ。



大学が、

『人のブランド力を上げるための

ラグジュアリーウォッチのような存在』であるべきか

それとも、

『人の「学びたい」という気持ちに

本来の意味で答える場所』であるべきかは



それを求める人々の気持ちひとつのようにおもいます。




学ぶということは、子どもを見ていると

自分の好きでないことを無理にやる時

とても効率が悪いです。



そもそも

学ぶということはとても自然なこと。


わたしたちは、生まれた時から

自分の力で、学び続けてきたのです。








:::::::::::

ちなみに同じ先進国でも、スウェーデン、ノルウェー、ドイツの大学費用はほぼ0円。

同様に、欧州諸国でも学費0円という国がほとんどだ。

それもそのはず、それら諸国は、国連総会で採択された「学費無料化目指す条約」を承認し、それに従ってきたからだ。

それでは日本はその条約を無視しているのか。

実は日本は最近まで、そもそもこの条約に同意をしてなかったのだ。

この条約を保留としたのは、条約批准160カ国で日本とマダガスカルだけ。

日本は、4年前に撤回はしたものの、出だしが遅れたにも関わらず、現在も具体的な見通しは立っていない。






















posted by terra at 04:15| 岡山 ☀| こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月07日

不登校ではなくてhomeeducationだとおもう

長女 空(ソラ) のはなし。

今9歳で、学校には行かず

homeeducation(家庭学習)を選択しています。





ソラは

小学校を入学式から1週間くらいだけ通学して、

放課後に行ったり

先生が宿題だけ持ってきてくれたり

遠足の日だけ行ったり

図書室の日だけ行ったり


いろいろしたあげく

ふつうに行くのはやめました。



行ってない状態がいつもの状態です。

子供が行きたいといい出さないかぎり

わたしたちから子供に学校へ行けということはありません。




わたしは、6歳の彼女の選択と判断を

尊重して、受け入れました。



子供が学校へ行かないと言ったので

条件なしで、家にいるのを認めました。



小学校の先生が、はじめのうちは

「学校へ来させるようにお母さんから言ってほしい」

と、言って来ていたのですが

わたしは、自分がおもうことは

言えるけど、おもわないことは言えない。と、言いました。




わたしにとって大事なのは

子供が「学校」へ行くことではなくて

自分が楽しいとおもえる好きなところで

好きなことをやって

満足した瞬間をたくさんもってくれること。






学校へ行かない選択をしたあと、しばらくの間

毎日学校に朝欠席の電話をソラが入れていたのですが

ある朝、


わたしは自分が電話をするのが嫌で

ソラにやらせてたんだ。

ソラにひどい強制を強いているんだなと。

ということに はっっと気がついてしまいました。


わたしは母さん顏して、「自分でしなさい」っていっていたけど

これは、わたしがなんとかしてやれることだ。

これをなんとかしないと

せっかくの家庭学習がただの不登校になってしまう・・・



「ソラの意思を尊重する。好きなようにしてください」

と言っていたのに、なんと中途半端だったことか。

先生の立場なんか気をつかったふりをしてみちゃったりして

まったく意味がないことをしていました。



先生だって、ちょっと仕事した気になってしまいますよね。

なにもしてないのに。



たいへんなのは6歳のソラだけ。






わたしがソラに謝って

もう電話も一切しなくていいことにしました。



学校とか役場という公的なところは

立場が大事な人たちが皆働かれているので

こちらが決定したことを

伝えるだけだったら、だいたい通ります。

お伺いをたてると、通りません。


すべては思い通りにできるのです。

しようとさえおもえば。




ソラは朝電話を入れなくて良くなった日から

ほんとうに家にいるのが楽しくなりました。


その日「もう電話しなくていい。家でなにしててもいい」

と言ったら、今まで家にあっても着なかった制服を

いきなり着てみて、


「制服だけは憧れてたんだけど、

 制服着たら学校に行けって言われそうで着れなかった」


なんていう健気なことを言うわけです。



それで、その日午前中は制服を着て遊んで、

それからもう二度と着てないです。

着てみたら大したことないし

遊びにくいしってかんじで。





わたしはとにかく

人に無理やり何かをさせるのは

ほんとに嫌なのです。


逆に、好きなことしている人は

そばで見ていたいと

心からおもいます。

うちの相方も

19歳のころから

わたしにずーっと見られてます。

どんどんいい男になっていくので

たのしいです。






ソラは、小学校にはいる前、

隣の敷地にある幼稚園のころから

「小学校はいくかどうかわからない」

と言っていたので



小学校の校長先生や担任の先生に

入学前からそう伝えていました。



わたしは

常に、ソラの代弁者になる、つもり。

社会とか学校とか、そういう、人じゃないもの、じゃなくて

生身のソラの、最も近くにいる人としての

役割をまっとうしたいのです。





まだ6歳だったソラは



「どうして学校に来たくないのか言葉で説明してみて」

と言われてもまだ思考を言葉に変換できない。





母さんであるわたしには

ソラの感情は

感情のまま分かったから

(なぜならまだ繋がっているからね。子供と母さんは)

「理由はまだ言えないけど、嫌なんだな」

というそれだけで十分だった。

たぶん、これはわたしが気付いてやれなかったら

そして、わたしがそれを自分のこととして

表現しなかったら、誰も代弁してやれない。




そうできなかったら、

ソラが20歳になった時に、きっと

「あの時、わたしには母さんしかいなかったのに

 どうして助けてくれなかったの!?」

って言われる。

わかってる。










大人になったって

「どうして会社に来たくないのか言葉で説明してみて」って

言われたら、「ちょっと家で考えて来ます」って

言いたくならないかな。



大人になってからじゃ

一緒に会社に行きたくないから

今、今のソラをわたしは大事にしたいよ。







大人の仕事だって、そんなに嫌になったら

職場を変えるしかない。



嫌っていうのは

理由があっていやなんじゃなくて

嫌だから嫌なんだ。

理由はそのあとについてくるのだ。

はっきりいって理由なんかなくていいのだ。


だって、自分の人生じゃないの。

みんな自分の人生じゃないの。



嫌だって言ってるのに

やらせる理由がこっちにない。









大人と同じ回路で話をしないからといって

子供の話がつまらないかというと

そんなことはまったくなくて

ソラと話すのは小さなころからとても楽しい。


子供は小さな哲学者で詩人で画家で音楽家

子供と遊びながら

少しずつ子供が獲得している言葉に

こちらがさまざまなことを教わっている。





たくさんのことを教えてくれても

この大人がつくっている社会に対しては

子供たちが初心者。



でも、今までの大人がつくってきた

ふつうの社会が、そのままでいいって

ほんとうにおもえる?


社会とか親の制約の中で

いい子にしていたとおもったら

結局自分がなにを感じて考えていたのかわからなくなっている

大人がたくさんいる。







子供は誰も

自分がなにを感じてるかわかんないなんて

言わない。


嫌なものは嫌だっていうし

好きなものにはいつだって夢中だ。


世の中のたくさんの大人ができないことを

みんな軽々とやっている。


子供のころはみんなこんなにたくさんのことが

できたのにね。




いつのまに大人になって

いつのまに自分の嫌なことを嫌だって言えなくなるんだろう。




全てを持って生まれてきたこの人たちが

ほんとうにもって生まれた才能を

ゆったりと伸ばして

そのままの形で

皆が得意なことをやって

皆が幸せで皆が楽しく

生きて行けたらいいんじゃないのかな。






学校とか、会社とかは

必ずしも人生に必要なものじゃないんだよね。

あたりまえなんだけどね。














IMG_0357.jpg












posted by terra at 14:39| 岡山 ☁| こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月12日

子供を見る


「子供を見る」

というのは

家事をしながら忙しいなかでキリキリしながら

「横目で」見る

のではなくて

文字通り「見る」のである。





「観る」の字でもいいのかもしれない。






:::


はっと気がつくと子供が


・・・



土間に水たまりをつくって長靴でバシャバシャやっていたり

100本くらい入ったクレヨンの缶をひっくり返したり

犬のゲージに入って寝転んだり

白い壁にマジックで落書きし始めたり

包丁で野菜を切りたがったり

お客さんが来たとたんに「だっちー(抱っこ)」になったり

机の角に頭ぶつけて泣き出したり

トイレに入ろうとすると「ぱいぱい、ねんね」と言い出したり



同じ絵本を何度も何度も読んでと言われたり

起き抜けにいきなり本を読んでと言われたり

寝る前に毎日同じ本を読んでと言われたり







:::






そういう時に

余裕があって

ただ落ち着いて「見る」

ことができると

子供といる時間はとても楽しい。






同じことでも

自分が余裕がない状態だと

機嫌よく対応できないのに



自分に余裕さえあれば

逆に、笑って面白がれる






特に、小さな子供がいるのに

親が毎日締め切りのある仕事を抱えていると

どうしても眉間に皺の入った顔を

子供に向けるようになってしまい

子供の顔がくもってくる。







これは、わたしの体験談だから

全ての女性に当てはまることではないだろう。





しかし、眉間に皺を寄せて毎日母親やっている女性がいたら

こういう風に考えられないだろうか





今やっているその仕事は

誰か他の人に頼むことができないか? と



もしかすると、

今、誰もやらなくてもいい仕事かもしれない、と。






今掃除をしなくても

誰も困らないかもしれない

今洗濯をしなくても

誰も困らないかもしれない

今食器を洗わなくても

誰も困らないかもしれない



旦那が困るというのなら、

旦那がやればいいのだ。

大人なのだから。






お母さんが機嫌が悪くて

困るのは誰か。

まずは、子供だ。

そして、夫だ。






わたしは、一体

誰のことを愛して

幸せになって欲しいとおもっているのか。






わたしは自分がまず幸せになりたい。

そして、欲をいえば、自分の幸せのために

子供も幸せをかんじてほしい、とおもう。

夫も幸せでいてほしい。





小さな子供の幸せ、は

母さんといっしょにいること

それから 母さんが笑っていること





だから、母さんは

自分の機嫌を、良くさせることばかり

選んで行くのが

よいのだ、とおもう。




わたしの場合

子供を「見る」時間

他のことは

なにもしていない時間がたくさんほしい。



家事をするより、仕事をするよりもずっと。





子供はわたしの趣味で娯楽で、贅沢なのだ。


今日も天気がよかった



























(ゆ)







posted by terra at 16:46| 岡山 ☁| こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月16日

ひとつ祭りがおわりました


こんばんは

先日は我が家の 窯出し展示週間 に
来てくれてありがとうございます。

2年ぶりに開いた家でのイベントでしたので
私たち家族がもっとも楽しんだのではないでしょうか。

展示にあたって家の中もちょっと大掛かりに改装できたし
気にいる物がすぐになくて
家が建ってから9年間ついてなかった外灯もつけました。

新しい什器をオイルで磨いている時
すでに楽しかったなぁ。



初日と最終日のイベントは
おかげさまでどちらも盛況で
狭い家のことなので
一瞬ごった返したりしましたが
参加してくださったみなさん
ありがとうございました。


なにせ山の中で交通機関が車しか無いので
自動車が家の前に連なってしまったり

証太の仕事が包装ばかりになってしまって
あまりお話しできなかったりもしたので

今後だれかに手伝いを
お願いするなど工夫しようとおもいます。


とにかく今の寺園家は
1歳8ヶ月の二女モモのお世話が中心で
暮らして働いてます。
9歳になったソラがもうだいぶ働いてくれるので
頼りにしました。

鍋でお米も炊いてくれるし
味噌汁も作れるし
だし巻き卵も作れるし

あと、買ってくれたみんなの
袋についている陶ビーズの紐も
毎日たくさん作ってくれました。

空、ありがとう。


☆ ☆ ☆


平日はお客さんがかぶらないくらいの
頻度で一組一組うまいことやってくるので
「徹子の部屋」みたいに
今まで機会がなかった方とゆっくりお話しできて
よかったです。
もちろん焼物もゆっくり見ていただけました。

もしじっくり時間をかけてみたいという方は
次回はぜひ平日に来てみてください。

それと今度は
ワークショップが
できないかなぁと。

例えば、この間
昨年牛窓に越して来た
匙や の さかいかよさんと
話をしていて
かよさんは漆を日常に仕事で使うので
陶器の直しを頼まれることが多いけれど
全部には対応できないので
簡単な直しはみんな
自分でできるようになったら
いいなーという話に。

うちは焼物家なんだけど
やはり、欠けたうちの焼物を
なんとかならないかと
持ち込まれることが
よくあります。

時間がかかりすぎるから
受けられないのです。

簡単金継ぎ教室(仮)みたいなのを
開いたら、とりあえず解決なので
ちょっと計画してみます。




☆ ☆ ☆



しかし、家でやると
布おむつを干しながらお客さんを待ったり
できるのが良かったな〜


展示会やクラフトフェアや祭りには
いつも家族みんなで行っているのですが
行った先のホテルやキャンプ場でも
おむつを持って行って
毎日洗って干すのです。


でも、さすがに毎日洗濯するのは
家がいちばん簡単。


ソラもモモも、ずっと布おむつです。
ソラの時はわたしがほとんど洗濯していましたが
モモのおむつの洗濯は8割がた証太がやっています。

洗濯がひとりの責任にならなかったら
布おむつはとってもいいことだらけです。


雨が続いて
布おむつの洗濯が滞ってしまった時に
紙おむつを買ったことがあるけれど
あれはとにかく
ゴミを大量に出してしまうので
うちはそれだけでちょっと気が重くなる。


証太は洗濯がわたしがやるより
ずっと早くて丁寧。
男の人って、実は家事が上手ですね。
子供の世話だってなにもかもできるし。





そういえば今回の展示期間中も
赤ちゃんを抱っこしている
20〜30代の男性のお客さんが数名いました。

うちの周りの男の友人たちも
子供の世話をほんとうに自然にやります。


わたしたち今40代の
第2次ベビーブーマーが子供のころ

赤ちゃんの抱っこやおんぶは
大概お母さんがしてました。

わたしが子供のころ
家族で出かける時
お母さんは自分の用意もそこそこに
子供の用意を山ほどしていました。

複数いる子供にそれぞれ服を着せるだけでも
けっこう大変なのですが

その間、お父さんは
なにか自分のヒゲを剃るだの
新聞を読むだの
なんか暇にしていても

子供のことはとにかくお母さんがやる、
ていうかんじだったのです。


わたしはそれを見ていて
子供ごころに

「大人になったらああいうスタイルの
 子育てはやめとこう」

という内容のストックをたくさんしていました。


けっして自分の親の人生を
批判をしているわけではないのです。
自分の好みを知る基準が
他にないのですから
親の人生ぜんぶが
子供が人生を考える
ネタなだけなのです。


子供が自分と同じ道を進まなくても
自分たちと同じような家族関係を
つくらなくても
自分たちがジャッジされていると
親はおもわなくていいとおもいます。


わたしの両親は今も二人で
つつがなく暮らしていますが

わたしはなにかないと
ほとんど実家には帰りません。

帰る暇が無いというか。


少し前までは
両親ともにいろいろ
やりあいましたが
今となっては
仲が悪いわけでもなく

ただ、わたしの家はここだから
実家に帰る、
という気分に全然ならないのです。

証太の実家へも
仕事がないと行きません。

証太は福岡名物
豚骨ラーメンと牧のうどん
がだーいすきですし
福岡大好きなんですけれど
やっぱり私たちの家はここしかないのです。






わたしたちは
いわゆる核家族で子供と暮らしていますが
子供を気軽に「預ける場所が無い」ということが
結果的によかったです。

ソラが3〜4歳くらいまでは
築窯中だったので
かなりたいへんでした。
余裕がなくて。

結局ソラは保育園が気に入らなくて
あまり行ってくれず。
その頃はどうしようかと
夫婦で険悪な時もありました。


しかしながら
日々成長する子供と
ずっと一緒に暮らすにつれて
親の方が学びが多いんだなということを
常に実感できるようになりました。


その後、小学校も行かない、という
ことをはっきり言うようになったころには
わたしの方が
「そう来たか!」って
おもしろくなったくらいです。



子供と暮らす
ということは

「今」の子供自身を発見し
自分自分を成長させることだとおもう。


結婚もそうだとおもうのだけど
人生には、その場をやり過ごすだけでは
どうしようもないタイプのことがあって
子供はその代表なんです。


意外と大人のすることは
今じゃなくてもいいことが多い。


ある程度、大人の方が
時間に緩みがないと
子供と知り合える時間がとれないのですよね。


子供を見ていると
かわいくて一日たっちゃってた・・・
というのはとても贅沢なこと。


昔、桜沢エリカさんの
「贅沢な出産」という本を
妊娠中にもらって読みましたが

「贅沢な子供との暮らし」というのも
あるんじゃないだろうか。

さいきん、わたしは
「贅沢」という言葉が好きなので
頻繁につかいます。

昔広辞苑で調べた時は
は、金銭的な贅をこらすようなことが
書いてあったけれども
今はだんだん
「お金じゃ手に入らないこと」
が「贅沢」だと言葉の
意味が変わってきたようにおもう。


子供は贅沢品の一種だという人も
いましたね。

だとしたら、贅沢は
たっぷり味合わないと。


趣味も娯楽も贅沢も全て子供でまかなえてしまう。
なんて子供は多機能な存在なんだ。


展示週間のお礼を書こうとおもって
ついまた子供の話になりました。
山上憶良みたいです。

もっともっと長くなってしまいそうなので
今日はこのへんで。







(ゆ)




















posted by terra at 02:32| 岡山 ☔| こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月14日

昔の日記から 母乳のこと 2007・2・6

Mother's milk
2007年02月06日22:52
じぶんは母乳がよくでるタイプのよう。 

近所に乳がでなくてこまっている方がいたら 

わけてあげたいと思うくらい。 

最近は乳がはじめごろより薄くなっているのか 

娘が口を離すとぴゃーっと飛んだりしてる。 


たのしい。 



このおかげで愛娘の体重はもりもりと増えて4600g越。 

もーなんか太ももとかおしりとかおなかも手も 

まるまるしちゃって、おいしそー 




いざという時にミルクを飲まなくなるから、 

たまには哺乳瓶にも慣らしておきなよ、と 

アドバイスもらうのだけど 

哺乳瓶、なんか面倒でだめ・・・特に眠たいとき。 


生まれてすぐから添い寝してたから 

夜中は「添い乳」娘とお互い、寝ながら授乳。 

これじゃないと、身体がもたないだろー。 

32歳初産 なんで無理しないでおこうと。 




娘が夜中に横で、ねえねえ、と乳を求めてくる 

ジェスチャーもかわいらしいし 

そこで、ぽいっと乳を出して咥えさせたらおしまいの 

簡単さがよいです。乳って。 

おきて哺乳瓶にミルク溶かすなんて、とてもわたすには無理。 






ところで、授乳してるとお腹がやたらすくので、妊娠中よりも 

大量に食べてるんだけど、食の好みもすごく変わった。 

妊娠中でも食べたくなかった甘いものがおいしいのなんの。 


まいにちチョコレートやパウンドケーキやカステラなんかの 

甘味をぱくぱくぱくぱく。くってます。 


もともとは酒飲みで甘いものは興味がなかったので 

不思議なほどの趣味のかわりよう。 

糖分が乳からでて虫歯になったりしないのか。 





でも、乳を出している間は私は太らないらしい。 

高カロリー食を大量に食べてるので 

私の場合は減らないでだいたい元に戻ったところでキープだけど、 

この時期に激やせしちゃう人もいるらしいやね。 



しかし次から次へと面白いことがおおいよな 

子育てしかしないのに全く退屈しない・・・ 








そら が生まれて2〜3ヶ月のころの日記を
ひっぱりだしてきました。
ああ なつかしい。


むかしの日記を読むのは
自分のことのようでいて
自分のことじゃないかんじ。
今の自分とは違うひとです。

昔のわたしは
そら の授乳ができる自分のおっぱいに
よろこんでるんだな。
おっぱいって不思議だもんなぁ。
なんでいるだけでるんだろう。
とっても便利!
これがでている間は
子供を育てるのにこれを使うのよって
体に言われているかんじ。
まるで魔法使い。
ふつうのお母さんって魔女じゃないの。

自分の昔の日記って
自分がいちばん読んで楽しめるんだとおもう。



二女 もも が生まれて1年半。
毎日ももが欲しい時におっぱいあげてるけど
この子はいくつまで飲むのかな。
もう、昔のようには乳が飛んだりしないけど、
これがわたしの今生のさいごの授乳だとおもって
おっぱい生活を楽しんでる。

そら の時は卒乳とかそういうことは考えずに
飲みたい時に飲みたいだけ飲ませていたら
4歳のときに自分で
「もうのまなくていい」
と言って 飲まなくなった。

4歳なんて超たいへんな〜って
おもうひともいるかもしれないが。


ひとが「やりたくないこと」を
がんばって「やらせる」こと。
わたしはほんとに苦手。

そこの努力はしたくない。
わたしにとってはその努力は
無駄。だって自分が楽しくない。
飲ませっぱなしの方が楽なのだ。

おっぱいもうんちも事情は
人それぞれだとおもうんだよね。

親の性格と生活スタイルと仕事と
子供の性格と嗜好と興味と
組み合わせは無限にあるよ。


うちは、基本的には見守る。
やりたいことを手助けだけする。


そら の小さいころは
足りない知識を補うべく
育児書も何冊か読んでみた。

ぴんときたところは
本質的なことだけとりいれた。
解説書ではなくて
その提唱者の本を読んでみるのが
理解が早いとおもう。

最初に読んだのは
シュタイナーで
いつ出会ったのかも
覚えていないくらい
自然に出会っていた。

彼の教育に対する気持ちは
共感するところが
たくさんある。


ただ、この教育を徹底しようと
おもうとうちはむりだなぁと。

近くにシュタイナーの学校があれば
行かせてみたとおもう。
でも学校のために引っ越しはしない。
親には親の事情がある。

なにせ3年以上かけてつくった
登り窯が、家のとなりにいるのがうちなのだ。

今、ここで、できることだけを探していた。
また原発が爆発したら
この限りではないけれど。


モンテッソーリは
役に立ちそうだなーとおもう工夫が
たくさん紹介されていて楽しい。

子供がよろこぶ道具をたくさん
つくってあげるんだけど

わたしには
この努力はできないだろうなぁと。

現実的に靴下の穴を
繕うのも滞る時があるのだから。

子供の成長に応じて
自分がいろいろ工作するのが
間に合うか?
たぶんむり。


教育論もいろいろあるけれど
結局、親の適性で選べるものって
違うんじゃないのかとおもった。
子供以上に親は良いからっていっても
いきなりできない。

育児書に書いてあることが
すばらしくても
読んだだけで
人生の中で「実践」できなければ
まったく意味がない。


わたしと証太が
実践できそうだ、
自分たちの指針になるなぁと
採用したのは
デモクラティックスクールのはなしだった。

子供の成長を
子供の自然な自性に任せて
見守る学校のはなし。

これは乳幼児の育児書ではなくて
そら が学校へ行かないと自ら決めてから
わたしと証太が読み始めた本の一部だった。

デモクラティックスクールは
イギリスのサマーヒル
アメリカのサドベリーバレーなどが有名。

読んだ本は周りの人に貸している間に
どこかに行ってしまった。
これを読んでいる友達が持っていたら
返してほしいな。


これを読んだ友人の中には
日本のフリースクールを
見学に行きまくって自分でも
フリーホームをやってみたり
がんばってる人もいる。


わたしたちは
子供が自主的に育つ
ということを実証している人たちが
この世にほかにもいるということを
確認できたらもうそれでよかった。

「見守る」って実は
簡単に見えて難しいのだけど、
心がけることによって
わたしたちも鍛えられた。


出産の時と一緒。
自分の持っている不安を
学習によって解消したら
あとは「やるだけ」なのだ。
「やってみるしかない」
時間はとまらない。


子供のことって
お腹の中にいたころと一緒で
その子だけをじいっと見て
声を聞いていたら
基本わかることが多いんじゃないか。
と おもってる。


(ゆ)


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posted by terra at 05:31| 岡山 ☔| こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

昔の日記から 「45日目」 命の責任は誰がとるのかということ



ソラはお腹にいた時から体重が

少ない赤ちゃんだった。


お医者:「小さいですね」

わたし:「なにか原因があるんでしょうか」

お医者:「わかりません」

わたし:「・・・・・」

毎回この会話を繰り返したなあ。



臨月ごろにはお医者さんが

「責任が持てない」から

「病院で産んだ方がいい」

と言っていたみたいなのだけれど


この場合

誰が「責任が持てない」のか?

医者でしょうか。

わたしでしょうか。


お医者さんはこの場合、出産は

「自分の責任」だとおもっているのですね。



わたしは命に関することって

「究極的に責任は誰ももてないものなのだ」から

「わたしの責任でさえない」し

「医者の責任」なんてものが、

あるってまったくおもわなかった。

だから

「結局家で生みたい」

と思っていたので

この二人はこの時、

あまり話が通じなかったわけです。



☆☆☆

妊娠後期は、わたしの頭のなかは

↓こういうことで始終

ぐるぐるとしているわけです。

文章にしてみるとこういうかんじ、というだけだけど。



子供は自分で生まれてくる。

好きな時に、好きなやり方で。

女が自分の体をつかってこの世に命を降ろすのが出産なんだな。


結局生きる死ぬを人間はなんともできないよな。


お医者さんだって

命に責任なんかとれないよな。


そもそも責任って、なんなのだろう。

いざという時の延命治療なのか。


子供には生まれるという

意志がある。



もし生まれてすぐに死ぬのだとしたら

そういう人生を選択して生まれてきた命だったのだとおもう。


どんな命なのか、それを全うするまでは

誰にも分からない。

結局、子供を宿した母の気持ちと身体にそって

やるしかないのだ。

それがいちばん子供の意志に近い選択なのだから。






☆☆☆





結局、生まれてみたらソラは

脂肪がとても少ないだけで

まったく健康体の赤ちゃんだったわけです。

そういうこともそりゃあるよな。

大人だって人それぞれ体格が違うんだから。

体格というのは個性です。


平均値っていうのは

あくまでも平均するから平均値なわけで。

平均にみんなを近づけようという努力は

意味がない。


エコー検査が発達したって

毎月毎週のようにエコーで見てみて

体長を計ってみたって

その赤ちゃんが

「ただスリムなのか」

「病気をもってて痩せているのか」

それさえも

分からないんだったら

エコーってなんのためにやるんだか。

ソラの妊娠時

あんまり何回もエコー検査ばっかりされたうえに

なにも得るものがなかったので

次の妊娠の時には

2回だけ。

あんまりエコーやりすぎるのも、

いいわけないでしょう。

そのこと考えると、

わたしは珍しく反省してしまいます。





(ゆ)






45日目
2007年01月03日18:04
2006は初めての子供を産んだ年。 

わが娘、空(そら)は 
生まれたときは2060gだった。 

生まれてから一ヶ月は 
ほとんどまともに寝ることもなく 
授乳していた。 

平常時のわたしなら無理なことだったけど 
できてしまう。 
体がつらいのはあたりまえだけど 
脳内に今まで無かった快感を覚える。 

昨日44日目、3470gになった娘。 
1410g体重が増えた。
posted by terra at 12:29| 岡山 🌁| こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月16日

赤ちゃん


超お久しぶりの日記です。

わたしは赤ちゃんが出てくる前に更新したっきりだから
もう半年以上経つってことですね。

半年って・・・
半年あったら梅干しもつかってるし、
つけた味噌だって食べれるようになってるんじゃないの。
よく知らないけど。
でも、日記の更新ってけっこう手間なのに
頻繁にされる方はえらいですね・・・

がんばろう。
せめてひと月に一度は近状報告くらいしないと、
日記っつってるのにねえ。

まあともかく、うちの赤ちゃんは産まれて半年たちまして
寝返りなどごろごろうつようになりました。

すごいですねえ、赤ん坊って。

昨日は、ゴロん・・・くらいだったのが
今日は、ゴロん、ゴロんゴロん、てなかんじで
毎日大人の100倍速くらいで成長してるのが
端から見ててもよくわかるし。
気持ちいいくらい。

私はあれです、なんか決めるときには
なるべく後まで延ばしちゃう性格なんですけど
子育てって、こんな調子で子供の方が
勝手にどんどん成長してしまうものだから
決めなきゃいけないことが日々迫ってくるんです。

紙おむつを買うとき、サイズはSにするのか、Mにするのか
はたまた、メーカーはパンパースなのかムーニーなのか
ぐーんなのか、やっぱり布か。とか。

ベビー用のマッサージオイルの香りは、
ネロリにするかラベンダーにするか、それともローズか。とか。

ステップアップマグは、どこのメーカーのがいいのか
ピジョンは良いって言う人もいるが、内容が漏れるという意見もあり、
アヴェントは、ちょっと高いけれどもなんか良さそう。
でもベビザラスという店でしか買えないしなー とか。

またいろいろプレゼントをいただいたのでお返しを用意しないとだけど
いったい何がいいだろうか とか。

今離乳食は昆布出汁を飲んでいるけども
煮干しの出汁はまだ早いのだろうか、とか。

なんか、雑多な考えるべきことが
日々目白押しです。

そして、すぐ大きくなるので
決定して進めないと、あと1ヶ月したら
また状況は確実に違ったものになってしまう。

くだらないくらい些細なことばかりなんだけど
まとまるとけっこうな決定事項の量になるんです。

ビジネスで普段決定事項の嵐の人には
あほらし〜と言われるようなことばかり。

だが、子供の成長は、実は端から見ると
あほらし〜ことの積み重ねだったりするみたい。

おとなだったら、別に3ヶ月くらいほっといても
たいして変わりゃあしないんですが
相手は朝と夜とでなんか顔つきが変わるくらいの
成長期にいる人なんで、待ってくれません。

もう自分のペースでのんびりとはできないのだな〜

子供が来てから
なんか洗濯するのも、掃除するのも皿洗うのも
妙に早くなったんですが
これが、要するに母になるということなのだなーなんて。

ああ、そういえば、母さんは
すごく皿洗うのなんか早かったなー・・・
と、懐かしく思い出したりして。

母になる、というのは
妻になる、とか、会社員になる、とかいうことと違って
一度なってしまうと、
もう二度と自分の意思で辞められないものな。
(父になる、も一緒です)

子供が6ヶ月なら、私も母6ヶ月。
母度を上げて行くべく、これから
赤ちゃんに置いていかれないように成長しないといかんのです。

まあ、ゆっくりとだけど着々と、ってかんじかな。


(ゆ)

posted by terra at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする