そら が生まれて2〜3ヶ月のころの日記を
ひっぱりだしてきました。
ああ なつかしい。
むかしの日記を読むのは
自分のことのようでいて
自分のことじゃないかんじ。
今の自分とは違うひとです。
昔のわたしは
そら の授乳ができる自分のおっぱいに
よろこんでるんだな。
おっぱいって不思議だもんなぁ。
なんでいるだけでるんだろう。
とっても便利!
これがでている間は
子供を育てるのにこれを使うのよって
体に言われているかんじ。
まるで魔法使い。
ふつうのお母さんって魔女じゃないの。
自分の昔の日記って
自分がいちばん読んで楽しめるんだとおもう。
二女 もも が生まれて1年半。
毎日ももが欲しい時におっぱいあげてるけど
この子はいくつまで飲むのかな。
もう、昔のようには乳が飛んだりしないけど、
これがわたしの今生のさいごの授乳だとおもって
おっぱい生活を楽しんでる。
そら の時は卒乳とかそういうことは考えずに
飲みたい時に飲みたいだけ飲ませていたら
4歳のときに自分で
「もうのまなくていい」
と言って 飲まなくなった。
4歳なんて超たいへんな〜って
おもうひともいるかもしれないが。
ひとが「やりたくないこと」を
がんばって「やらせる」こと。
わたしはほんとに苦手。
そこの努力はしたくない。
わたしにとってはその努力は
無駄。だって自分が楽しくない。
飲ませっぱなしの方が楽なのだ。
おっぱいもうんちも事情は
人それぞれだとおもうんだよね。
親の性格と生活スタイルと仕事と
子供の性格と嗜好と興味と
組み合わせは無限にあるよ。
うちは、基本的には見守る。
やりたいことを手助けだけする。
そら の小さいころは
足りない知識を補うべく
育児書も何冊か読んでみた。
ぴんときたところは
本質的なことだけとりいれた。
解説書ではなくて
その提唱者の本を読んでみるのが
理解が早いとおもう。
最初に読んだのは
シュタイナーで
いつ出会ったのかも
覚えていないくらい
自然に出会っていた。
彼の教育に対する気持ちは
共感するところが
たくさんある。
ただ、この教育を徹底しようと
おもうとうちはむりだなぁと。
近くにシュタイナーの学校があれば
行かせてみたとおもう。
でも学校のために引っ越しはしない。
親には親の事情がある。
なにせ3年以上かけてつくった
登り窯が、家のとなりにいるのがうちなのだ。
今、ここで、できることだけを探していた。
また原発が爆発したら
この限りではないけれど。
モンテッソーリは
役に立ちそうだなーとおもう工夫が
たくさん紹介されていて楽しい。
子供がよろこぶ道具をたくさん
つくってあげるんだけど
わたしには
この努力はできないだろうなぁと。
現実的に靴下の穴を
繕うのも滞る時があるのだから。
子供の成長に応じて
自分がいろいろ工作するのが
間に合うか?
たぶんむり。
教育論もいろいろあるけれど
結局、親の適性で選べるものって
違うんじゃないのかとおもった。
子供以上に親は良いからっていっても
いきなりできない。
育児書に書いてあることが
すばらしくても
読んだだけで
人生の中で「実践」できなければ
まったく意味がない。
わたしと証太が
実践できそうだ、
自分たちの指針になるなぁと
採用したのは
デモクラティックスクールのはなしだった。
子供の成長を
子供の自然な自性に任せて
見守る学校のはなし。
これは乳幼児の育児書ではなくて
そら が学校へ行かないと自ら決めてから
わたしと証太が読み始めた本の一部だった。
デモクラティックスクールは
イギリスのサマーヒル
アメリカのサドベリーバレーなどが有名。
読んだ本は周りの人に貸している間に
どこかに行ってしまった。
これを読んでいる友達が持っていたら
返してほしいな。
これを読んだ友人の中には
日本のフリースクールを
見学に行きまくって自分でも
フリーホームをやってみたり
がんばってる人もいる。
わたしたちは
子供が自主的に育つ
ということを実証している人たちが
この世にほかにもいるということを
確認できたらもうそれでよかった。
「見守る」って実は
簡単に見えて難しいのだけど、
心がけることによって
わたしたちも鍛えられた。
出産の時と一緒。
自分の持っている不安を
学習によって解消したら
あとは「やるだけ」なのだ。
「やってみるしかない」
時間はとまらない。
子供のことって
お腹の中にいたころと一緒で
その子だけをじいっと見て
声を聞いていたら
基本わかることが多いんじゃないか。
と おもってる。
(ゆ)