今日ずっと薪ストーブで焚いていた小豆を
最後に煮詰めてあんこにしないとと思って、ちょっと夜中に起きてきました。
昨日はパイポン畑家族が久しぶりにうちに来て
映画見ながら鹿肉を焼いて食べたりしていたのだけど
子供と早いうちに寝てしまってました。
日が明けたら、餅つきの用意を始めます。
証太は、家でする餅つきがずっと夢だったので
ことしはいつの間にか臼をどこからか貰ってきていて
杵も最近借りて調達。
初めての自分ちの餅つき。
田舎にいると、臼や杵も皆持ってるんだと感心してるのですが
よく見ると、道路から見かける家の庭先に
石臼がひっくり返しておいてあったり、
金魚鉢になっていたりします。
ここに住んで6年になるけれど
毎年、いろいろな餅つきに参加させてもらっていました。
ことしは、関東に住む自分たちの兄弟姉妹にも
お餅を送ってやりたいという気持ちもあって
家でがっつりついてみようかなと思います。
先日の選挙の結果を見ると
まったく晴れやかに餅つきしている場合じゃないようなもんですが
落ち込んでいてもしょうがないし、せっかくだから
ひと臼ずつ、気持ちを込めて、
丸くて、白くて、すべすべしてて、あったかい、
幸せの象徴のような、お餅を
たくさんつくって、実りをいただこうと思う。
世の中、お金を中心とした価値観でつくられてて
そこから自分を遠ざけることは日々難しい。
自民党がこれから、公共事業を中心とする政策を施行して
世の中の景気が一瞬よくなったように錯覚させられるかもしれない。
でも、80年代の好景気を思い出したらいい。
ただ、世の中に回っているお金が多いだけで
それが豊かなのかどうか、ほんとに考えてみたらいい。
備前焼にも、バブルの以前に作りさえすれば売れた時代があったらしい。
「いい時代がまたきたらいいのにね」と、親切心で言ってくれる人もよくいるのだけど
私たちは、バブルがはじけた時にはまだ学生だったので
そういった好景気を一度も実感として感じたことはないのだ。
不況育ちだからか、そういう時代の方がまだ、実がある時代だと思っている。
確かに、良いものをつくったからといって、すぐにたくさん売れるわけではないけれど
自分たち自身も、より良いもの、美しいもの、素敵なもの、こころを震わせるもの
を、考えながらじっくりと求めることができる。
今、なんでもいいから高いモノを出してくれ、と言われたら
ずいぶん複雑な気持ちがすることだろう。
求める先がお金だったら、なんて人生は無意味なんだろう。
お金というのは、ただ、価値を約束されている紙なのだ。
それ自体は、食べられるわけでもない、着られるわけでもない、住めるわけでもない。
お金が無くては生きていけないという言葉は
本来の意味で間違っている。
食べるところ、住めるところ、着るもの、
そして、助け合えるコミュニティが無いと
人は生きていけないけれど。
(ゆ)