2017年06月24日

学びは義務ではなく権利である (池田賢市 教授)


今発行されている「暮らしの手帖 2017初夏号」に
不登校についての特集が載っていました。


うちのお子は学校へ行っていないので
不登校なのかと、氣をつかって話をしてくれる大人の方が(たまに)います。
(まわりにはもうあんまりいませんが)


学校という形にこだわっていませんが
彼女は常に家で自分なりの勉強をしています。
勉強方法はあたりまえですが、かなりオリジナルです。


.<br />ソラにとってピアノは<br />弾くものでもあるが<br />制作物を貼りまくる<br />コレクションボードでもあるわけだ。<br />.<br />日々増殖していくので<br />たまにマジマジ見るとびっくり。<br />子どもってほんとすごい。<br />,<br />#piano<br />#paperdoll






先日は「聖徳太子」(池田理代子)の漫画を
友だちから借りて来たので
一緒になって読ましてもらいました。

わたし、日本史の教科書くらいでしか
聖徳太子のことは知らなかったし
昔お札に描いてあった人、という認識くらいで
たいして興味もかったんですが
面白かったです。


わたしはこれで初めて
冠位十二階、十七条の憲法、遣隋使、大化の改新
といったことの流れがわかりました!
今さら!!


思ったのは
日本の教科書はなぜもっと漫画を利用しないんでしょう?
ということ。


氣楽に学ぶことを排除しているとしかおもえない
教科書のセンスのなさは
けっこう異常にみえます。



これだけ日本には漫画がたくさんあって
漫画家もたくさんいるんだから
もう、教科書も漫画でいいのでは??

現に、大人のわたしにも
勉強になるしね〜



文科省は「クールジャパン」を定着させたかったら
「円周率を3、にする」とか
そんなアホなことしていないで
教科書漫画にしたら、みんな楽々勉強できるのにね。


楽をしないで
努力しないといかん、
とおもっているふしがありますね。
日本の文科省は。




きっと、外国の人にもウケるし
すごく話題にもなるとおもうんですけどねー


わたしはお金(おさつ)も

手塚治虫の柄にして
火の鳥を描いたらいいとおもうし

赤塚不二夫にも登場してもらって
バカボン家族を描いたらいいとおもうし

水木しげるを載っけて
妖怪を描いてらいいとおもうんですよね。


福沢諭吉とか、なんであんな
海外で問題になりそうな人をわざわざ載せるんでしょうね。


わざとつっこみ待ってるとしかおもえない。






わたしは私立の大学、
証太は私立大学のあとべつの私立大学院へ行きました。

20代の前半の時代に
あれだけ自由で贅沢な時間をもらえたことは
ほんとうに親に超絶感謝なんですが

子どもたちにも 同じコースをたどってほしい、
とは特におもいません。

いろいろな人の
人生を帆走しながら垣間見ていて
感じるのは

人は皆

自分が
幸せになりたかったり

子どもが
幸せになってほしい

ただそれだけ
という人がほとんどだなーということ。



ここで問題なのは
幸せだー、というのを感じるセンサー
は、みなべつべつのしか付いて無いのです。



親がいくら幸せを感じることでも
子どもは一緒じゃないかもしれない。

子どもが幸せを感じることが
親には全くわからないかもしれない。


それは「個」として生まれて来たからには
どうしようもないことなのです。



親が押し付けてくる
「こうしたらこの子は幸せになるに違いない」
という氣持ちに

どれだけの子どもが
応えようとして、応えられず
「親を満足させられない自分」を

恥じたり、
不甲斐なく思ったり、
責めたり

したことだろうとおもう。






学校にしたって例外じゃなくて
小学校のころから
行くか行かないかを含めて
全てを子どもが決めていいんだとおもうのです。



子ども自身が決めれば、
もう、そこから子どもの人生が始まっています。
個人の経験の始まりです。



親が決めたことをやらせると
そこはまだ親の人生の中で
子どもが右往左往しているだけ。

自分の経験はまだ始まっていません。



子どもの選択を
応援するだけでいい。

その心は、けっこう親の氣持ちを軽くもできるんだけど。



わたしは、自分とは全然違う人生の経験を
生き始めた子どもを尊敬しています。


自分自身は、小学校も中学校も高校も
ほんとうは行きたくなかったけれど
親に氣を使って言えなかったなあ。




今から自分がしたいことや、したくないことを
大人に臆せずに言えるなんて
すごいなーとおもっています。







(ゆ)





モモが散歩から帰ってきたので、
今はここまで。











後日追記


「暮らしの手帖」2017年初夏号に掲載の文章
 もし子どもの「不登校」で悩んでいる人がいたら
 他にもいろいろ内容がありましたので
 本誌も読んでみたらいいとおもいます。



そもそも、学びは学校でなくてもいいのです。法律上でも同じです。




>>>引用
池田賢市(中央大学文学部 教育学教授)



  学生によくする質問なのですが、皆さん、「義務教育」って、どんなもので、なんのためにあると思いますか?ちょっと考えてみてください。

 「日本人が6歳から15歳までに受けねばならない教育」「社会にでて困らないように、最低限、必要な知識を学ぶこと」そのように考えた方は少なくないのではないでしょうか。

 「義務教育」とは、正しくは、子どもの学ぶ権利の保障を親に課し、その条件整備を行政に課すものです。そもそもは、子どもが親によって労働力として使われることのないように、子どもを保護する観点から生まれました。ここでたいせつなのは「義務教育」が学ぶ側の義務は学ぶ内容を指す言葉ではないということ。そして、学びは子どもの「
権利」であるということです。

 これを踏まえると、不登校がまるで「問題」のように扱われるのは、不思議なことと言わねばなりません。学ぶことは権利なのですから、その権利はいつどんなふうに行使してもいいのです。

 「体調がわるいので、しばらく休みます」とするのも自由だし、「そろそろ勉強したくなったので」あるいは「学びたいことが見つかったので」勉強を再開するのもいい。そもそも権利を行使する・しないに理由などいらないとも言えます。「学校」はそういった子どもの学びの権利を保障するひとつの場でしかありません。

 「問題」にされるべきなのは、子どもが学ぶ権利を行使できるように、そのための環境をしっかりと用意できているかどうか。決して、国や地方公共団体が用意した学校に、子どもが登校できているか否かではありません。

 日本の教育現場では、子どもを一律に勉強させ、一律に競わせます。それが当たり前のこととされています。とかく個性個性と言われる昨今の世の中で、学びのあり方においては、個性はなかなか認められません。これは残念なことです。














posted by terra at 18:05| 岡山 ☁| こどもと暮らす | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする