寒いですね。
昨日今日は晴れの国にも
少し雪が降りました。
岡山は暖冬だったのですが
木枯らしが吹いて
いよいよ冬らしくなってきました。
これで一段と瀬戸内の牡蠣も美味しくなります。
*
ところで
このブログを読んでくれている方
ありがとうございます。
ここに移住した9年前に
開設したのですが
忙しさにかまけて長いことほったらかしたり
非常に安定感のない更新状態でした。
特に、2011年の3.11のあとは
正直言って
なにも書けないし、発信できない、
という状態が長く続きました。
あの3.11の直前の日本は
岡山の田舎から見ると
生ぬるい膠着状態だったのを
よく覚えています。
わたしたちは、
初めての子供が生まれ
初窯の準備中で
自分たちの人生がいよいよこれから
というところで全く余裕がない時期でした。
その当時の日本の中が
うまくいっているとか
文化的に成熟へ向かっているというふうには
まったくおもえず、
自分たちもこのまま死ぬまで
このぬるいかんじをキープし続けていくのだろうか?
このままでいいなんてまったくおもえないけれど
まるで戦前の雰囲気を漂わせたまま
何十年もやっていけるんだろうか?
という、とりあえず低空飛行の平和なんだな
っていうふうにかんじていたのをよく覚えています。
あの福一の原発のキノコ雲が上がったニュース映像を見て
一瞬で、絶望、後悔、恐怖、といった様々な感情
が胸に押し寄せてきて、
ほとんど同時に
ああ、こういうふうに結果がでてしまったのだ、
という、誤解を恐れずにいえば安堵にちかい
諦観に一瞬襲われました。
そして、深く納得しました。
病気になったら、体から排毒するために
吹き出物がでるように、
このままなにもなく行くことは無かったのだなぁと。
ちょうど、1年前くらいにあった
ケニアで修行したパーカッショニストのの
大西マサヤくんのライブのごろから
そろそろほんとうに原発がやばいよね
と、話をしていた矢先だったので
思っていただけではダメだった・・・
という、虚脱感がありました。
わたしは、そもそも、昔から
わりと言いたいことは口にする人間だと自分でおもっていました。
でも、ほんとうのほんとうに
誰にでも発信していたかな?とおもうと
そんなことなかったんですよね。
3.11前は、他人に接する時
「気を使って」話していた。
「人によって」話す内容を
ここまででいいかな
ここまで分かってもらえるかな
と、推しはかりながら話していた。とおもう。
そういえば
子供のころ、小学校の先生に
「人と違うことをするのが個性だと
おもっているんじゃないか」
と、叱られて
「 ??? 」
ってなったのを覚えています。
わたしは学校嫌いではあったものの
不登校も結局しなかったし
成績は良くも悪くもなかったし
普通の子供だったとおもうんですけどね。
ただ、少し妄想癖があったり
テンポがまわりと合ってなかったりしたかもしれない。
でも、人同士って、そもそもみんな違うでしょう。
小学校の道徳の教科書にも国語の教科書にも
そういうことは載っているのに
多少変わった子供がいると
おなじ型の中に嵌めようとするんだなぁというのは
常にかんじていたわけです。
そして、大人になっても問題はおなじで
結局、原発というのは
遡れば教育問題でもあります。
わたしたちは小学生のころから
原発はクリーンな未来のエネルギーだと
教育され洗脳されてきていました。
*
3.11後に情報収集のために
いろいろな人のブログを読んでいました。
ほとんどは原発や放射能の情報を得るためだったのですが
去年ひょんなことから
「生きにくさ」を克服して
「楽に生きる」というテーマでブログを書いている人が
実はたくさんいるということをしりました。
先日の日記にちょっと書いています。
アメーバブログを使っているひとが
やたら多いのが特徴なのですが
皆が口を揃えて言っているのは、とにかく
「自分を自分で幸せにすること」
他人や社会の価値観に合わせるのではなくて
自分がときめくことでワクワクしながら
生きていく、ということを
いろいろな切り口で語っている。
みたところ
原発のことやら放射能のことなどは
ブログ上の問題にしていない場合がほとんどです。
しかし、わたしは読みながら
人間社会の中で
「本来の自分」ではないものになって
生きにくさを抱えながら生きている人は
こんなにたくさんいるのだということと
これを読んでいる人たちが
皆、自分なりの価値観で生きだしたら
石油システム、原発システム、金融経済システム
の社会も確実に変わるんだろうなぁという
希望をそこに見つけて、愛読しています。
だから、原発のことなど、なにも書いていなくても
そこには希望がある、とおもいました。
この時代に生れてきた人たちは皆
変革していく社会を見たいのだとおもいます。
宇宙の真理や大きなシステムがある、とすると
人間もその中の一部であり、人一人一人が
小宇宙です。
その宇宙が上手くいくための仕様書は
なにかというと、人の場合は
自分がやりたいこと、をやるしかないのですよね。
*
たとえば、わたしは
どう転んでも、この人生で
電車やバスの運転手になることは無かったとおもいます。
バレーボールの選手になることも無かったし
おそらく学者っていうのも無かったとおもう。
政治家もないし、医者も弁護士もない。
ワクワクもしないし、ときめかないから。
でも、それらにときめく人はいくらでも世の中にいる!
全体のために、いてくれるのです。
子供と一緒に暮らしてずっと見ていると
生まれたばかりでも人には明らかな個性があるし
その人の生きたい方向性が見えています。
人というのは、好きでもないのに無理やり
医者になったり、弁護士になったり、政治家になったりするものではない
先生だって、子供や、教えることが
好きじゃない人はなったらいけない。
自分のやりたいことを、やる。
それが、人間が自分を発揮できる
唯一の生き方だし
全体の調和は、それによってとれる。
たかが、生れてから死ぬまで
肉体がある中でのはなしです。
好きなことをやるために
生れてきているのに
好きなことを自分にやらせてあげないから
生きにくいのです。
*
そういえば、今思い出しましたが
わたしは子供のころ
「人が自分のことをひとり幸せにすれば
世界中の人が幸せになれる」
ということを大発見した気になって
大人に吹聴したのですが
相手にされなかったことがあります。
大人は皆
「そんな甘いものではない」
「貧乏な人はどうすればいい」
とか、そういうことを言っていた。
それから、大人になって
ついぞ忘れていましたが
今、やはりそれでよかったのではないかとおもう。
3.11以降、社会に対する義憤がたまって
(毎日毎日なにかに怒っていたので)
1年半後に腎臓の病気になりました。
今までなったことの無い病気に突然なって
調べてみると、腎臓っていう臓器は
怒りや恐怖が溜まるところらしいのです。
わたしはそのとき、自らを不幸にしていたなぁとおもいます。
まず、自分を幸せにすること。
その器が溢れたときに
人にも幸せをわけてあげられる。
今はそうおもって暮らしています。
*
今日は長い日記を読んでくださってどうもありがとう。
ゆ
ラベル:3.11