(ゆ)です
産後を母に手伝ってもらうことにしたので、
このたび広島へ一時帰省して近くの助産院を探しに行きました。
前からあたりをつけていた助産婦さんがいたので
まずその方へ電話で連絡してみる。
電話で話した助産婦さんの印象は、お年のわりに
話がえらく早いなーというかんじ。
なにせ、その方はお歳が86才とのこと。
広島市内で唯一残る、有床の助産院を営まれている。
お産の時以外はいつ来てもよいと言われたので
家族にせかされ、さっそく、相方(し)と父母と一緒に車ででかける。
私は一人でいろいろ行ってみようかと思っていたのだが
家族も一緒に行ってみたかったらしい。それはそうか。
やっとついたところは普通の一軒家のようなところ。
小さな看板がかかっている。
ドアのチャイムを押してもだれもでてこないので、電話をかけてみると、
「鍵はあいとるから、どうぞお入りなさい」と、
またあのシャキシャキしたおばあさんの声がした。
ぞろぞろと玄関から入ると
ちょっと居眠りをしていた風の小柄なおばあさんが
出て来る。田舎のおばあちゃんがよく着るような
プリントのうすでのワンピース姿に素足で、短髪の白髪頭。
部屋は大昔に建てられているからか造りがどこも小ぶり。
「ここへ寝てみて」と言われた診察用のベッドも小さくて
私が足を伸ばしては入りきらないので、
足をすこし曲げて上向きに寝る。
やや不安げな顔で見守っている、相方(し)と、父母。
まずお腹を出して、助産婦のおばあちゃんは胴囲など計り、
そこへベビーパウダーをはたき、丁寧に触診。
さすがに手慣れた様子。すこしざらざらしたあたたかい手。
小さな身体のおばあちゃん、手は力強い。
そういえば今診察してもらっている病院では、
今まで触診ってされたこと無かったなと思う。
いつもエコーなんかの機械を通して医者に触られている。
腹を触っていたおばあちゃん、一言
「ちゃんと頭を下にして左向きに入っとる。しっかりしとるから
あんたみたいな人は安産よ」
いやあ嬉しかった。
今まで病院では言われたことの無かった言葉。
最も聞きたかったこと。
いろいろと診察と問診をしてくれる。
亡くなったおばあちゃんが、生きていたらちょうど
この方くらいの年だなーと思う。
私は出産の希望を話した。
・陣痛促進剤は使いたくない
・相方に立ち会ってほしい
・フリースタイルで産みたい
・会陰切開をしたくない
それぞれ、あっさりと
「うちは好きなようにさせるの。好きなように産んだらええ。
助産院は陣痛促進剤は使わんし、
会陰保護術をもっとるのが助産婦じゃから」
私の欲しかった答えがもらえた。
なにやら、やたら安心してしまうきっぱりとした優しい口調。
母も心配顔で、質問
・ここまで車で家から1時間ほどかかるのだが大丈夫か
・8ヶ月にしては子供が小さいようなのだが、大丈夫か
これらにも、おばあちゃんは堂々とした口調で
「心配せんでも、1時間じゃ生まれやせんけ。
ゆっくりこられなさい。
これからの2ヶ月が子供はどんどん大きくなるの」
極めつけは、いつごろ帰省したら良いのでしょうか、という母の質問に
「あまり早く実家へ帰るとだいたい出産が遅れるから、
2週間ほど前でいい。直前まで家で仕事をしなさい」
だいたい病院では1〜2ヶ月前から帰省して検診を受けろと言われます。
他にも、食べ物は5色のものをよく噛んで食べるように
運動不足にならないように家事をいつも通りに、などと話をしてくれる。
あとは、父が戦中からやってらっしゃるのかとか、
戦後は忙しかったでしょうな、なんていう話をしていた。
今まで何度も話をされたんだろう、戦中戦後の助産院の話。
ここは広島なので、原爆の時の話も。
実際に戦争を生き抜いた人の話は重い。
その中で、おばあちゃんが
「こうやって戦争で生き延びた命だから
ずっと人様のためになることをして生きたいと思っている」
「赤ちゃんは自分で産まれてくる。わたしらはそれを助けるだけ」
というような意味のことをおっしゃっていた。
もう60年以上も現役の助産婦をされていて
今までに8000人以上の赤ん坊をとりあげているのだ。
経験から来るものなんだろうけど、話をすると、なんとも言えない
安心感と説得力を持っているおばあさん。
今まで病院では感じたことがないほどほっとした。
私は、この人間国宝のようなおばあちゃんに
赤ちゃんをとりあげてもらうことにした。
気がつくと、ここへついてからゆうに2時間経過していた。
皆が心配のあまりさまざまな質問を繰り出すのに
はっきりきっぱり答えてくれた助産婦さん。
なのに、なんとこの日はおばあちゃん、払うと言っても診察料をとらなかったのだ。
お金を払わなくて得した、とかそういう気持ちにはなれなくて
これは、ビジネスじゃないんだ、ライフワークなんだ
と言われているようで、感動した。
一生できる仕事は、いいですね。